点灯/あーめすなんこう アーメス軟膏 固有名詞
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第一次世界大戦以前は、ドイツ帝国とスイス、イタリアを結ぶ列車は、のちのラインゴルトの経路であるライン右岸のバーデン大公国経由ではなく、当時はドイツ帝国領であった左岸のエルザス(現フランス領アルザス)経由を主としていた。1901年に運行を開始したフーク・ファン・ホラント - バーゼル間の昼行急行D164/163列車はラインゴルトの前身ともいえる列車であるが、上部ライン地域においてはビンガーブリュックから南下しノイシュタット、シュトラスブルク(ストラスブール)を経由していた。この列車にはフリッシンゲン-バーゼル間、アムステルダム - ミラノ間などを直通する客車も連結されていた。
第一次世界大戦の終戦後、ドイツでは経済の混乱やフランス、ベルギーによるルール占領などのため、列車の運行には困難な状況が続いた。1924年のドーズ案受諾とドイツ国営鉄道会社(Deutsche Reichsbahn-Gesellschaft, DRG)の発足により鉄道は安定を取り戻した。国際列車の運行に関しては、大戦前に列車を運行していた国際寝台車会社(ワゴン・リ)と、大戦中にワゴン・リの路線網を奪う形で設立された中央ヨーロッパ寝台車食堂車会社(ミトローパ)の間で対立があったが、1925年に両社とドイツ国営鉄道の間で協定が成立し、ドイツとオランダなどの間の列車はミトローパの担当とされた。
1925年夏からは、オランダのナイメーヘンとスイスのバーゼルを、クレーフェ、ケルン、ヴィースバーデン、マインツ、ルートヴィヒスハーフェン、マンハイム、カールスルーエを経由して結ぶ長距離急行列車 FD164/163列車が運行されている。
ドイツ国営鉄道は、01形機関車に始まる標準化された蒸気機関車の製造を進める一方で、豪華客車を利用した旅客列車を計画した。このような列車を運行する路線として最初に選ばれたのが、ケルンとマンハイムの間のライン川に沿う景勝区間である。これを南北に延長し、北はオランダ、南はスイスに至る列車としてラインゴルトは構想された。